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2007年2月12日 (月)

モノ作りを必要とされた時代

東京国立近代美術館の柳宗理展を見て来ました。
感想は「普通にステキ」
これでいいじゃんと思います。

何が「いいじゃん」かと言うと、
何十年も前にこんなステキなモノがあったんだから
これ以上新しいデザインのもの必要ないじゃんって。

最近、、、いや学生の時から思ってはいたのですが、
デザインしてる場合じゃないんじゃないか、、、
むしろモノを作ってる場合じゃないんじゃないか、と。

戦後のモノの無い時代からの急激な高度経済成長&人口増加で
「ドンドン作る」という事は当然の経済活動でしたが、
モノが足りるようになり、人口も減ろうとしている今の時代
大量開発・大量生産・大量廃棄は時代に合ってないのは目に見えてます。
(「デザインはモノからコトへ」という先生の言葉にも影響されたり)

学生の時は単純に自分の将来が不安だったんですね。
モノ作りの会社に就職して、
こんな時代にそのモノを作り続けて潰れやしないかと。

で今思うのは「モノ作り=ゴミ作り」ぐらいに思うわけです。
モノで溢れてるんですから、すでに。

そうは思っても蓄えのない私は毎日を生きて行くために
目の前の仕事を片付けて行かなければならないです。

自分の中にそんな矛盾を持ちながら柳宗理展を見て
モノ作りを必要とされた時代の、モノ作りの名人って言うのは
シアワセ者だな〜と単純に羨ましかったです。

話それますが、オランダでの友人に聞いた話を思い出した。

日本人はモノを作るのが上手い。
イギリス人は人を使うのが上手い。
で、アメリカ人はルールを作るのが上手いと。

だから、一番賢いのはアメリカ人なのだとか言うお話。
そのモノ作りも中国が持って行きそうな時代、
日本はどこに行ったらいいのでしょう?


柳宗理展のあとはイデーショップがオープンしたというので表参道へ。

イデーと言えば言わずと知れたお洒落インテリアショップの元祖。
潰れたか何だかで、しばらく表に出てなかったですが再オープンです。

場所は青山の±0のショップの通りを奥に行ったあたり。
こじんまりとした印象。
中は相変わらずのお洒落インテリアデザイングッズが並んでました。
場所、建物は変わりましたが、前のお店と変わらない感じです。
「あのイデーが戻ってきました!」って感じです。

ただ、ちょっと違和感。間違いなくあのイデーなんですが、
イデーのモテハヤされたあの頃とは時代が変わってしまった。
私の趣味が変わったのもあると思います。
いずれにしても、以前ほど魅力は感じられませんでしたね。
今はイデーに行かなくともお洒落インテリアショップは増えてますし、
無印良品や±0などのフツウ“深澤”デザインが流行ってる最近ですから
お洒落インテリアグッズを揃えたセレクトショップってのは
前時代的に見えました。

なんだか美術館を覗いた気分でした。
ミュージアムショップって言う表現がピッタリかも。
面白い物がたくさんあって、刺激的でとても楽しいんだかど、
欲しいとか買おうとか1mmも思わなかった。
リアル豚の貯金箱とか誰が買うんすか?
これ以上モノ増やしたくないですし!
(買う金も置く場所もないんですけどね。)

もうモノは要らないですよ。
でもモノ作れなくなったらデザイナーはどうすりゃ良いんですか?
(食いっぱぐれるかな?)

柳宗理うまれるかたち柳宗理うまれるかたち
柳宗理デザイン金沢展開催実行委員会

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コメント

上記たいへん同感します。
イマは「生産の喜び」の置き所に
迷う時代です。

過去とイマを対比して捉えるとその通りですが
ではあの時代が手放しに良かったのかと言えば
現代の「モノ作り=ゴミ作り」のような問題も
思えば過去の世代からのツケでもあり、
決して現代の諸問題と無縁ではない訳です。

いまがモノ作りを不要としているのではなく、
社会に負担を強いないモノや、
モノ→ゴミ化を抑制するサイクル(コト)を
構築するという、より高度な思考が求められる世代へ
一歩踏み出したと捉えることも可能です。

家、ファミリーカー、ダイニングテーブル、
Tシャツやペン1本にいたるまで、消費者は
新しいモノとの出会いを決して諦めていません。
むしろより質の高いモノとの出会いを求めています。

過去よりも容易に買えない、作れない現代ですが
過去はある犠牲に目を背けて邁進していただけであって、
むしろ現代の市場は、出生率の低下も含めて、
ある種正常に機能し始めた結果ではないだろうか、と、
私は考えます。

消費を見捨てず光を充て続けることは
時につらいと感じるコトもあります。
が、デザインが経済活動を見捨てたら、
陰鬱で殺伐とした社会になるでしょう。

次の時代は、意外なところでたやすくトビラを開くかも
しれませんよ。

投稿: ag | 2007年2月12日 (月) 16時11分

「モノは要らない」というのは、そのモノによるなぁと思いました。
例えば、結婚式の引き出物用としてつくられたんだなぁと思わせる引き出物の器はちょっとなぁと思うけれど、食べ終わったピクルスのビンのシルエットが美しいので花を活けるのに棄てないでとっておいたりするので、「要らないモノは要らない」ということになると思います。
暮らしを楽しくするモノって永遠に必要なモノなのではないかと思います。
どうでしょうか?

投稿: 笹原 彩子 | 2007年2月13日 (火) 22時53分

コメントありがとうございます。

aqさんの言う「生産の喜び」という言葉が
正に私の言いたかったど真ん中です。
単純にそこが羨ましかったんです。
仰る通りモノを作るには難しい時代ですね。
だからこそ作る人の力が試される時なんでしょうね。
そう考えると頑張れます。

笹原さんの言う「モノによる」というのは私も思う所があります。
このエントリーにはハマらないので言及しなかったのですが、
食器・調理器具などは
やはりもう新しいものは必要ないと思います。
でも自動車のように日々燃費が良くなって行くような
進化の途中にあるプロダクトは
古いものを使い続ける方が悪(環境に悪い)だったりしますので。
なので仰る通りケースバイケースだと思います。

「暮らしを楽しくするモノ」についてですが、
平和な世の中があってこそな話に思います。
今のイラクでは必要ではないと思いますし、
じゃんじゃんモノを作って地球の環境が悪くなって
「暮らしを楽しく」以前に「生きるので精一杯」に
なってしまう未来の可能性はあると思うのですよ。
論点ずれちゃってますけどね。
問題が環境問題にすり変わっちゃってるので。
すいません。

単純に何が正しいとかわかんないです。
極端な話、本当に地球の未来を考えたら
人間が滅亡した方が良いのかもしれませんし。
極端すぎですけど。。。

まあ極端な事言った方が問題が明確になります。
こう言う風にコメントを頂けて、
色々な考えを見る事ができて良いです。

投稿: ironika | 2007年2月14日 (水) 02時13分

まぁモノの顛末だけみててもアレなんで、もすこしマクロぎみに、、、、。

モノの起こす出来事はゴミ以外にもあるんじゃねかと。
「モノによる」基準を
その出来事が素敵で犠牲が少なけりゃ、
そーゆーもんはあってもえーかな?とか。
ってとこで見てみたらええんとちゃうかなぁと。

人間が物質である以上物理的なカラミは必要ですし。
たべものとか極端にもってきゃ、生産時点で出る物質考えりゃ流動食でよかったりするしね。

投稿: デザイナB | 2007年2月14日 (水) 15時45分

「流動食」の喩え、なるほどですね。
デザイナーってのは料理人で、
エンジニアが栄養士な感じ?

美味しくて体に良ければ最高ですね。
人生楽しくて、環境に悪いのでないんなら
あっても良いですね。


投稿: ironika | 2007年2月15日 (木) 01時16分

内容に反論するつもりで書いたのではないのです。。。。。
学生の頃から「既に家具の素材とデザインは出尽くしてしまったから、これからのデザイナーは大変だ。」と言われてきましたが、それでも誠実にあきらめずにモノを産み出すことを続けています。
多分今50歳くらいの方も同じような環境だったのじゃないかなと思います。
もちろん、現代に生きているので環境のことも考えていますよ。

投稿: 笹原 彩子 | 2007年2月15日 (木) 01時35分

笹原さん、すいません。
大丈夫です。反論とはとってません。
コメント欄での話を盛り上げるためには
うんうん頷いてるだけだと詰まらないと思ったので
思ったことそのまま書いただけです。
じゃんじゃん反論でも何でも書いてください。
よろしくお願いします。

今回の記事を書いたのは
時代によって不要になってしまう職業というのがあるので、
デザイナーさんも「不要」と言われないよう気をつけて、
日々世の中に役立つ職業になったら良いなーと
思ったからです。

投稿: ironika | 2007年2月15日 (木) 02時07分

乱文失礼します。

次代のデザイナーは、たとえば「自動車」なら、現代社会における自動車の自動とはなにか?を再定義し形にする人だと、センソリウムの竹村先生がなにかのスピーチで仰っていました。

マクロな視点だと
上で言う現代社会における=グローバリズムや環境問題、資本主義の行き詰まりなど、係数は複雑ですが、要はデザイナーもそれに無関心はもちろん、無知ではいけない時代なのかと思います。

ミクロな視点は
深澤さんやナガオカさんが体現されていることなのかな、と。

投稿: デザブロライター(ウェブディレクター | 2007年2月21日 (水) 14時24分

ちょっとまとまりきらなかったので、
上に補足

「生産の喜び」は結局、途絶えることはないと思います。
その観点を本人が現代社会と絡めて再設定できるか、どうか?
私は、現代社会はデザイナーの課題にあふれていると思います。

ちょっと物議を醸し出す物言いをすると、現代社会と向き合って、デザインという定義自体を方向修正していく気がない人、また「生産の喜び」を見出せない人、それは現代デザイナーとして向いていないのかもしれません(自戒をこめて)

また、現代と過去の社会状況は単純比較できませんから、昔はよかった的な結論付け、思考停止、これも自戒したいですね。

投稿: デザブロライター(ウェブディレクター | 2007年2月21日 (水) 14時36分

ウェブディレクターさんの言う「生産の喜びを見出せない人はデザイナーに向いていない」と言うのは多少違和感を覚えます。

なんでかなーと考えていたら
aqさんの言う「生産の喜び」というのは純粋にモノ作りと言う意味だと思います。柳宗理からの話の流れなので。
ウェブDさんの言う「生産の喜び」の「生産」というのはクリエイティブという意味ではないでしょうか。ウェブもグラフィックもモノではなくコミュニケーションを作っているわけで、物質的なモノを作っているわけではないですよね。

このコメント欄内だけで、「生産」の対象物が「物質的なもの」から「価値的なもの」に変わってる事こそが、デザイナーの役割の変化を物語ってる気がします。

投稿: ironika | 2007年2月22日 (木) 02時36分

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